このごろ劇場@字幕屋#150「言葉に出来ない気持ち」

大雪が降った時から随分とご無沙汰になってしまったが、個人的にヴェルディマラソンをしてみたり、それなりに忙しい冬だった。

 

話は変わるが、よく居酒屋で会話の内容が判るように字幕機能をオンにしてテレビを流していることがある。

先日もとある店に入ったところ、字幕付きの某国営放送ドラマを流していた。鹿児島が舞台のあの大河ドラマだ。

 

音声の無い状態のまま、ハイボール片手に何となく見ていたのだが、文字と画面だけ見ていても一向に話の内容が掴めない事にふと気がついた。字幕が全て喋っている発音(薩摩弁)そのままだったのだ。

 

話はまた少し変わるが、同じSどんの話でも司馬遼太郎などの小説では、登場人物の発語以外の文章は大体がいわゆる標準語だったように思う。また、中島らもの文章で関西弁記述が出てきても、意味が分からないということはなかった。だとすれば、活字化して成り立つ言語・成り立たない言語という境目はどこなのだろう?

 

グーグル先生に訊いてみると、地球上には文字を持たない言語も少なくなくないという。

「その言語は活字として成り立つのかどうか」…字幕屋として、これはとても興味深いことだ。

 

全編が薩摩弁で歌われるオペラがあったとしたならば、字幕は標準語に置き換えて作ったほうが良いのかもしれない。でも、薩摩弁でしか表現できない言い回しがあったとしたら、どうすべきなのだろう。例えば、ポルトガル語の『サウダージ』は「他の言語では一つの単語で言い表しづらい複雑なニュアンス」だとグーグル先生は言っている。うーむ…。

 

そんなこんなを考えているうちに、テレビはバラエティ番組に変わっていた。こういった番組では、字幕をオンにしなくとも、ロケでのやり取りは全てに字幕がつくことが多いが、あれは字幕ではなく漫符の一種じゃないかと俺は思っている。

 

写真は例によって本文と関係なく、兵庫+大阪現場の帰りに見た富士山の写真。